深川284号/特集「江戸前の原点 鰻と深川」の中で誌面の都合で全文掲載しきれなかった、船宿『深川 冨士見』5代目・石嶋一男さん(87)のお話を掲載します。
江戸時代の深川は江戸前ウナギの名産地。小ぶりで味のよいウナギが多く、牡蠣や蛤と並び名物として扱われていたそうです。深川には昭和37年まで深川浦漁業協同組合が存在し、海苔の養殖を中心に漁師が活躍。元漁師でもある船宿『深川 冨士見』の5代目·石嶋一男さん(87)に、昭和25年~30年当時のウナギ漁についてうかがいました。

◎ウナギはどうやって獲っていたのですか?
ウナギは春先から夏にかけて獲っていたよ。12月から4月は海苔の養殖のシーズンだったから。俺が中学卒業する頃までウナギは獲れてたよ。
ウナギ獲りは竹箒を逆さにしたような「ボサ」っていう仕掛けで獲るんだ。ボサづくりは春の仕事でね、お台場や夢の島だったかなァ、あの辺で切ってきた細い竹や枝を束ねて。「つけ柴」とも言うんだけどね、毎年つくってたね。
ウナギは夜に活動するから、川底に約3メートル間隔で200~300のボサを一晩仕掛けておくんだ。ボサをあげるのは夜8時頃。そっと持ち上げると、いつも1~2匹はボサに絡まってあがってきた。それを下から三角網(ボサダマ)ですくいあげると、網の中にウナギが落っこちてきてあばれてる。小さなエビも獲れる。
仕掛けるのはお台場周辺が多かったね。今の辰巳水門の辺りもよく獲れた。深川の漁師はどこもウナギ漁やってたよ。その時分は仕掛ける場所を毎年くじ引きで決めていたね。
◎驚くほどウナギが獲れたことがあったそうですね。
うちの親父は昼間に釣り船出してるんで、夜はお前がウナギ獲りに行けっていうことになり、まだ小学5~6年生の頃から一人で船を出して行ってた。近くまで機械船で行き、着いたら小さい船を下ろして仕掛けた場所まで行って、引き潮の潮をみてボサを上げてくる。
だいたい夕方5時半に出て、夜11時頃には遅くても帰ってくるんだけど、ある晩、今の辰巳水門の辺りまでウナギを獲りに行ったら、ウナギにとりつかれたんだよ。最初のボサをあげると10匹以上のウナギが絡まってる。ボサを何回あげてもウナギが大量に入ってる。30分くらいで戻ってみても、また入っている。絡んで寝てるんだよ、ウナギがさァ。
夢中になって獲ってたら朝になっちゃってね。親父は心配して朝まで釣船橋の上で帰りを待っていたらしいよ。後にも先にも本当に獲れたのはその時だけ。あん時はおふくろたちも大変だったよ。三日三晩ウナギを焼いてさ、店先で売ってたよ。
◎獲ったウナギは店で売っていたのですか?
ウナギは生かしたまま組合に売った。でっかい四角い桶がいくつか並んでいて、そこにウナギを入れるんだ。組合はうちの店と調練橋の間にあったんだ。ウナギってのは昔から値が良くてね、10匹も獲れればけっこう良い値になった。魚河岸からも問屋が来たし、京橋の鰻屋がいちばん多かったかな。
たくさん獲れた時は店の前でも売ったよ。ウナギをザルに入れてね。ウナギって強いんだよ、死なないんだよ。水をタラタラたらしてれば10日や20日は生きてんだ。まな板の上で頭を串刺しして、裂くのは難しかったね。慣れた人しか出来なかったよ。
江戸前ウナギはあまり蒸さない。蒸したウナギなんて旨くないって言ったくらい。丸のウナギを裂いて、タレつけて焼いただけ。女の人が5~6人手伝いに来て、練炭火鉢を5つくらい並べてタレつけながら焼いてさ。鰻屋より安かったから、夕方になると金比羅様までお母さんたちが行列してるの。
◎獲れたての美味しいウナギをたくさん食べてきたのですね。
中学の時は土方弁当にウナギ入れてくれた。海苔を2段に敷いて、いつもはおかずが入っていないんだよ。友達は卵焼きとかいろいろ入っているんだけどね。たいがいウナギ、ない時はアミの佃煮。隣が「シライワ」っていう有名な佃煮屋だったから。いやぁ、アミも獲れたねぇ。アミはエビの仲間で、ちょっとでかくなるとクジラの餌。帯になって泳いでたよ。葛西の方の漁師が船の真ん中に山になって塩みたいに積んでいるんだよ。嘘じゃないよ。それを、ここでもって揚げてさ。古石場にニッコー冷凍の倉庫があったから、そこに1年分を凍らせとくの。朝から晩まででっかい窯で煮て。「うちは東京一の佃煮屋」って言ってたからね。
そうそう、近所の親父に「ウナギゼンシロウ」って呼ばれたウナギ獲りの名人がいたんだよ。ウナギ掻きって知ってるかい。鎌の先に3本カギがついているやつね。泥の中に入れて1000掻きに1本っていわれた時代に、ゼンシロウは毎回引っ掻ける。ウナギってのは固まって生息してるんだね。
◎釣り船·屋形船「深川 冨士見」/江東区古石場2-18-5/TEL.03-3641-0507 【公式サイト】

※この記事はタウン誌「深川」284号に掲載したものです。